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「怒れる春の風韻
馥郁たる春の芳香
音と色と香の翕然」


音がする。
風の煽る音、
雨の弾く音、
嵐の荒ぶ音、
葉の鳴る音、
波の凪ぐ音、
陽の降る音、
啓蟄の音、
鶯の音、
芽の萌ゆる音、
死にゆく音、
生まれくる音、
――春の足音。
春は、音の季節と云う。

 人は音に導かれるのかも、しれない。
 晃一郎は金管の鳴る音に導かれて、校舎の屋上で斉藤と出逢った。
 優巳は水の鳴る音に導かれて、廊下の曲がり角で里実と出逢った。
 いつみは風の鳴る音に導かれて、校庭の桜の下で香代子と出逢った。
 互いが互いを引きあう力は、偶然を必然へと導く。理を越えた力は、突然にも緩慢にも、簡潔にも冗長にも、訪れる。望むも否も、かかわることなく。
 波紋に波紋が重なった時、作用は干渉を示して、互いに増し、互いに潰し、霊妙なる結果をもたらすのかも、しれない。
 音と音が干渉しあい生まれた力が、なにかを起こすのだろうか。
 その時、理を越えて、なにかは起こるのだろうか。
 神の領域たるこの力を畏入って、古人は「縁」と、斯く名づけたのかも、しれない。
 春は、出逢いと別離れの季節とも、云う。


 大きくそびえる欅が、長い影を落としていた。
 重ねて白樺の輪郭も大地に映し出され、この番いに端を染められたすべり台が、同じくある。
 その隣に、二人が座るベンチの屈折した影絵があった。
 どこか遠くの空で、からすの声。明るく輝いていた彼はすでに傾き、今日の仕事を終えて眠りに就こうとしている。
 いつみと香代子は、赭く暮れなずむ空と同じほどの目で、地平へ沈みかけた夕陽を見送ろうとしていた。涙はすでに涸れてしまい、そのせいか、心は不思議にすっきりした気分で落ちついていた。
(ばいばい、また明日ね)
 心の中で、しばしの別れを恵みの神へと手向ける。冷酷なまでに二人の時間を突き進めていた太陽は、今はいつもの優しい姿に戻っていた。不思議にすっきりとした気分が、そっとおやすみと言える心をも、すくい上げていた。
 その安らぎは、赤くあたたかい光に撫でられているせいだろうか。それとも、涙が言いようのない物哀しさを溶かして、外へ流してしまったのか。もしかしたら、それこそが、時間の流れるがゆえの恩恵なのかもしれない。
 ともあれ、二人の浮かべる穏やかな表情は、静かに落ち着いた公園の雰囲気に、よく合っていた。
 いつみがふり向く。
「おやすみがあるのは、おはようがあるから」
 香代子が向きあう。
「おはようがあるから、おやすみを言える」
 鶏と卵の合言葉で心を交わしあうと、二人の少女は、それこそ天使の微笑みを与えあった。
 まだ小さな雛達は、大空へはばたく日がくることを待ち望んでいる。そう信じる力こそが、少女に勇気をもたらし、希望へと導いているに違いない。

 時が流れれば今は過去になってしまうけど、
 時が流れるから、まだ見ぬ明日がくるのだ。

 合言葉は、そんな勇気を授けてくれた。
 頬を撫でる凪ぎ風は優しく、色彩を赤から紫へと描く夕焼けは美しく、天へ向かってそびえ立つ番いの大樹は雄々しく、それでも明日を見つめようとする二人の詩人は、こんなにも強かった。

 いつみは、自由と希望を司る娘だった
 香代子は、勇気と信心を司る娘だった
 二人が出逢う時、女神は愛情を司った

(…………)
(どうしよっかな……)
 いつみは、さっきからずっと迷っていた。迷いと言うにはずいぶん建設的な、選択だった。
 言うべきか。言わざるべきか。伝えるべきか。伝えざるべきか。
 言うなれば、伝えるなれば、今以上の好機もない。本当は選択肢がひとつしかないことも、心の裏ではわかっていた。
(……そういえば、)
(前にもこんなこと、あったよね……)

    †

 その時、いつみは誰かに呼ばれたような気がして、ふり向いた。
 一陣の風に踊る桜花の房。送った視線の先には、大樹へ抱かれるようにして身をゆだね、少女が静かに泣いていた。
 溶けてしまいそうに淡い存在と、消えてしまいそうに薄い影。
 それなのに、衝撃的な印象が心に焼きついた。魅入られたように、目が離せなくなった。
 興味に手を引かれるまま、名も知らぬ少女をうかがい続けた。知らないうちに歩み寄っていて、
「どうして、泣いてるの?」
 まるで告白でもするかの気持ちで、そう問ったのを憶えている。少女は、風に舞う小さな色のかけらを目で追いながら、
「桜が――

 いつみは、香代子と出逢った瞬間を浮かべていた。
 どうしてあんなに強い印象を受けたのか、なぜあんなに強く惹かれたのか、そして、あの日に宿ったくすぐったい気持ちは、なんなのか。
 今日のさっきまで、わからなかった。香代子と出逢ってからの一年間、ずっと心の中にあった。笑いたくなるような、笑っているような、変な気持ち。不可解なのに、どうしてか心地よくて。
 感じたことのないその正体は、考えもつかなかった。
 ……今日のさっきまで。
 でも、識ってしまった以上は、伝えないと気がすまない。それが性分であることを自分でもわかっているし、そうしたい心が今まさに飛び出しそうである。抑えなければ勝手に言ってしまいそうで怖い。もはや、選択肢は、ひとつしかなかった。
 ――初めて好きになったのが女の子だなんて、初めての告白が女の子相手だなんて、格好いいじゃないか!
 通念や慣習に反する事実も、いつみを縛りつけようとするには、あまりに細かった。まとわりついてくる常識をすっぱりと切り捨てる様は、小気味の良い音まで聞こえそうな潔さがあった。
「香代ちゃん、あのね……」
 しかし、いざ切り出してしまうと、……これは思いのほか、度胸のいる所業であった。
 怖さは、ない。これで香代子との関係が崩れてしまうなど、考えてもいない。なにか確信めいたものが、否定的な返事を一瞬たりとて想像させなかった。
 返事も、いらない。ただ、自分の正直な想いを、ありのままの姿で伝えたい。
 それだけのことなのに、続く言葉はなかなか出てこなかった。
「あ、あのね……」
 少々焦る。まさかこんなに度胸のいることとは、考えてもみなかった。困った。どうしよう。ちらりと香代子の横顔をのぞくも、夕陽を見つめたまま微動だにしていなかった。ふり向く様子もなく、自分の手を握る力のかすかな変化が、意識の傾きだけを教える。
「あっ、あのね、私ねっ、あのねっ……」
 ――だめだ、このままじゃ埒が明かない。
 大きく息を吸いこんだいつみは、次の一瞬にすべてを賭けた。こんな自分、自分らしくないっ!

「いつみちゃんっ、私ねっ、いつみちゃんのことが大好きっ」
 〈か〉が音になる瞬前、不意をついて香代子はふり返った。瞳をまっすぐ見つめて、一気に言い放った。いつみの口は、きっかり七秒も、閉じなかった。
 言葉の意味がだいぶ遅れて認識された時、いつみは顔が赤くなっていくのを自覚した。その倍の早さで香代子の頬も真っ赤に染まり、そのままうつむいてしまうと、
「ずっと、ずっと前‥‥から、好……たの……」
 いつみの手が痛みを感じるほどに力をこめ、細く、か細く、絞り出すようにしてやっと、残りの想いが心から心へと伝わった。
 ――沈黙。
 大きく動いた時間が静けさを取り戻し、出ばなをくじかれたいつみは、少し我を忘れてしまった。うつむく香代子の頬から、雫が落ちるのを認めるまで。
(ごめんね、ごめんね、こんなこと言っちゃだめだよね、でも、)
 辛うじて、それだけ聞きとれた。声はこみあげる音に次々とつぶされていき、もう言葉にはなっていなかった。
 いつみの心が、ぎゅっと悲鳴を上げる。
 香代子も自分のことを好いているのは、それとなしに気づいていた。ただ、恋愛感情であると気づくのが遅すぎただけだ。だから、否定的な返事は考えていなかった。
 でも、目の前の香代子は今、泣いている。しかも、謝っている。次々と伝わり落ちる涙は、太陽に流したものとは、まったく別の色をしていた。抑えてきた感情の爆発は、なぜかとても哀しい色をしていた。
 ずっと苦しんでいたのだろう。迷惑をかけまいと、ずっと思い悩んでいたのだろう。むせぶ声が、なにより物語っている。
 なぜ?
 相手は女で、自分もまた、女だから?
 性分的に恵まれたいつみとは違い、香代子は器用に立ちまわれなかった。迷惑がかかることを案じて、今まで想いを殺し続けてきた。鈍感ないつみよりもずっと早くに気づいていた分だけ、つらさは比べものにならなかったはずだ。
 いつみの心が、さらに締めつけられた。
 春の魔法が、彼女達を狂わせてしまったのかもしれない。魅惑の魔法が不思議な気分を作り出して、長く保たれていた危ない均衡を、崩してしまったのかもしれない。想いあまって、いつみより瞬間先に、香代子の感情が爆発してしまったのかもしれない。
 そうして、天秤は支柱から転げ落ち、壊れてしまった。これではもう均衡も保てないし、修復だって叶わない。
 ――それがどうしたと言うのだろう、直らないならまた新しいのを作ればいいじゃないか!
 いつみは心の中で叫んだ。事実はただひとつ、自分は香代子が好きで、香代子は自分が好きだということだ。他にはなにもいらない、なにもいらないっ!
 だから、ここで謝るのは筋が違う!
 自分は迷惑などと感じていない。間違っているとも思っていない。
 自分の感じたことをそのまま言うのが、どうしてだめなのだろう。
 だから、今は泣くべき時じゃない!
 強い意志を宿した瞳から、雫が一粒、流れ落ちた。一人でずっと悩んできた香代子を、自分の手で救いたいと願った。心の奥底から。
 今度は自分が早く気づいた分だけ、支えてやらねばならない。たとえどれだけ苦しんでも、望むがままに、想うがままに!
 香代子が耐えられないのなら――
 いつみの頬を伝わる涙には、そんな覚悟までも感じさせた。
 脳裏には、香代子と初めて出逢った日、桜を散らしていた春の風が思い出されていた。
(……よく似てる……)
 今までの一年間、いつもそうだった。香代子が泣けば自分ももらい泣きするし、自分が笑えば香代子も微笑んだ。性格のまったく違う二人なのに、なぜか面白いように心が同調した。
 あの日、桜の樹の下で交わしあった、無言の契。あの時も香代子は泣いていたし、自分ももらうように泣いていた。

(香代ちゃんは、まだ憶えててくれてるのかな)
 気になるわけではないけれど、二人の絆を確かめあうには、これが一番てっとり早かった。
 涙に濡れる香代子の頬へ手をやり、そっとふり向かせる。
「……どうして、泣いてるの?」
 自分の頬にも伝わり下りる雫を感じながら、
「桜が――散っちゃうのが寂しいの?」
 指先に宿った雫を、舌先へ乗せた。
 ほのかな味覚は、心なしか甘いように感じられた。
 問われた香代子は、少し遅れてから、かすかな笑顔を涙まじりに作って見せる。
 そして一粒、いつみの頬から指先にとって、同じように。

    †

「……どうして泣いてるの?」
 まるで告白でもするかの気持ちで、いつみは問いかけた。少女は、風に舞う小さな色のかけらを目で追いながら、
「桜が――、桜が、散っちゃう。なんで、なんでこんな一生懸命に咲くのかな。どうして風はこんなに強く吹くのかな」
 頬を濡らし見上げる先には、桜花の房が一陣の風に煽られていた。小さな色のかけらが、儚く散っていく姿があった。春を待ち侘び、長い冬を耐えぬいた息吹が、一瞬にして吹き飛ばされていった。
 いつみは少女の視線を追ったまま、泌みこんできた無常感が心の中ではじけるのを、黙って受け入れた。

 ――それはいつみにとって、懐かしい感覚だった。

 たぶん、この子も、桜がすごく好きなんだろう。だから、花を散らしてしまう春の風が、許せないんだと思う。かつては、自分も同じことを感じてたから。
 いつみにとって、桜は春の代名詞ではなく、そのものだった。だからこそ、この少女の感じ方に興味を示し、桜と風は仲のいい友達なんだよって、わかってもらいたかった。
「………………」
 子供の頃は、桜が咲くたびに哀しくなってた。お花見に行っても泣いてるばかりで、春は好きだったのに、その分だけ嫌いだった。強く吹く風を受けるたび、怖ささえ感じてもっと大泣きしてた。風なんかなくなっちゃえばいいのに、って本気で思ってた。
 どうして、こんなに強く吹くんだろう。こんなに強く吹いたら、桜の花がかわいそう。

 ――懐かしい感覚。

 冷たさの残る風は、まだ冬の匂いを多く残していた。かけらを吹き飛ばす勢いは、やはり無情なものなのかもしれない。
 はぐれた風が頬を撫でて、一筋の流れがあることを、ひんやりとして教える。それを、どこか淡くなった自分の存在の中で、知った。

 桜が――、散っちゃう。

 涙から染みこむ哀しさは、すぐに散らされてしまう桜への同情に思えた。今、自分の影が、少女と同じほどに薄くなっていることを、心のどこかで感じていた。
「一生懸命に咲いても、すぐ散らされちゃうのに」
 少女は、そうくり返したが、
「だからこんなに綺麗なんだよ、きっと」
 いつみは、にっこりと微笑んだ。
「たとえすぐ散っちゃうってわかってても、その間を精一杯に咲こうとするから、こんなに綺麗なんだよ、きっと」
 くり返すいつみの影が、色濃く戻っていた。
「蝉があんなにうるさいのは、一週間しか生きれないからなんだよって、お母さんが言ってたもの」
 小さな色のかけらから、いつみへ、少女の視線が移る。いつみの奏でた抑揚ある声が、今、美しく響いた。共鳴が共鳴を呼んで、心の中、鏡の湖に大きな波紋が広がった。桜の枝葉をしっかりと見つめる彼女の眼差しは、自分にはない存在感を強く主張していた。自分は、あんな瞳で桜を見たことがあっただろうか?
 なんて、綺麗なんだろう。少女は思った。桜の花よりずっと綺麗だと、いつみの横顔を見つめて、感じた。彼女は自分よりずっと純粋であることを、認めなければならなかった。
 同時に、強すぎる印象が反動を呼び起こしも、した。

 明るすぎるその輝きに、呑みこまれてしまいそうな不安。
 純粋すぎるその眼差しに、魅入られてしまいそうな動揺。

 煽られたものは、恐怖心にも似ていた。
 恐怖?
 そうかもしれない。
 だったら、それは怖いもの見たさ、なのか。
 それにしては、鏡の湖に立てられた波風が、あまりにも綺麗な波紋を描き出してはいまいか。
 芽生えた恐怖心――好奇心を抑えようとするには、目をそらそうとするには、彼女の横顔はあまりにも眩しすぎた。
「……でも、風が吹かなければもっと長い間、咲いていられるのに」
 透きとおった音色をもっと聴きたくて、適当な言葉を投げかける。すでに、桜は、視界に入っているだけだった。桜より、彼女を見ていたかった。こんなことあってはいけないのに、だって、でも、今はこの人を見つめていたい。
 少女は黙したまま、あらがうすべを失った。
 いつみは桜の樹へ歩み寄って、太い幹に手をかざす。いとおしそうに寄り添い、瞳を閉じて、抱かれるように、身をゆだねる。どうしたらあんな表情を醸し出せるのか、少女には想像もつかない。
 語る口調は、どこまでも穏やかで安らかだった――
「桜って、どうすれば自分がもっと綺麗になるか、知ってるんだよ。そのために幹と枝は濃く色づいてるし、葉っぱも後から出てくるの。自分を、もっともっと輝かせたいから。
 でもね、そうしてるうちにね、花が散らないと葉っぱを出せなくなっちゃったの。だから風が代わりに散らしてあげることにしたのね。みんなには余計なことするなって嫌われても、葉っぱを出せないと桜が死んじゃうから。
 本当は、風はとても優しくて、桜とは仲がいいんじゃないかな。だってほら、こんなに綺麗じゃない」
 いつみは風を透かし見るように仰ぎ、少女はその視線を無意識のうちに追う。先には大きくそびえる桜の大樹が二人を見下ろし、見守っていた。大地に根ざし大きく腕を広げるその姿に、少女が感じていたような儚さは、どこにもない。
 いつみの瞳が輝いて見えた。風に煽られた房の一切れが頬を撫でて通り過ぎた。脈動が心の中をかけめぐった。
「……私、そう信じてるんだ」
 いつみの目に余っていた涙が、まぶたの細まる勢いで押し出され、頬へ伝う。枝葉に漉された木漏れ日で雫が輝いた時、少女は、一瞬の衝撃に胸を貫かれた。その時に強く吹いた風が、桜吹雪と呼ばれる演出を加えて、いつみの姿をよりいっそうと凛々しく見せた。
 ……たぶん、これが生命の輝きなんだろう。桜があんなに綺麗で、微笑みかける表情がこんなにも美しいのは、今を精一杯に生きているからこそ、なのかも、しれない。
 少女の瞳から、また一粒、流れ落ちる。
 それは儚さに流れる涙?
 ――違う。
「風が春を運んでくれるから、冬の終わりを知ることができる。風が雲を運んでくれるから、雨は降って大地を潤す。その恩恵に、授かる。桜も、私達も」
 いつみは、そうつけ加えると、少女の涙を指先で優しく拭った。
 春の陽差しと、この白く澄んだ頬には、似合わない。
 そんなことを思った。
 少女のやわらかい感触はどこか母の温もりを連想させて、自分の涙を拭うことも思いつかなかった。ずっとふれていたかった。ひと目見て衝撃的に焼きついた印象が、なにか得体の知れないくすぐったさを覚えさせた。
「七瀬いつみ」
 いつみは、抜けるような笑顔で名を告げた。
 少女は、瞳をまっすぐに見つめたまま、いつみの頬に伝った涙を優しく拭う。ひどい寂寥感を鮮やかに消し去った見知らぬ彼女は、不意に訪れて、心の隙間に入りこんだ。もう二度と消えないように感じたし、――手放したくないと思った。
「香代子、……安原香代子」
 少女は初めてあたたかい微笑みを見せ、いつみに応えた。
 互いの指先に宿った雫は、どこかほのかに甘い香りとともに、舌の上で淡く溶けていった。

 そうして、二人は契を交わしあった。
 それは、契に他ならなかった。
 この時、心はすでに奪われていた。

「よろしくね、香代ちゃん」
「うんっ」

 ―― 一年前、桜の花咲く校庭の片隅、風の音に導かれるまま、二人は出逢った――

 ……あの日に交わしたのも、また、心と、涙だった……

「……私もね、初めて会った時から、香代ちゃんのことがずーっと好きだったんだ」
 舌先で溶けた涙の余韻を含みながら、いつみも、ずっと内に秘めていた想いを伝えた。
 どうしてだろう、さっきはあんなに固くなっていたのに、なぜか自然と言葉が出た。それは、決して香代子に先手を打たれてしまったからでは、ない。
 自分の心に宿っている、隣の少女を想う。
 これが恋だと言うのなら、それでも構わない。これを愛と呼ぶのなら、それも構わない。それは変だと思われても、全然構わない。
 だけど、もっと、なにか違うような気もしていた。恋でもなく、愛でもなく、よくわからないけど、もっと、なにか大切な気持ち。
 この時、二人は同じ瞬間に、まったく同じことを感じていた。
「……私ね、いつみちゃんと逢えて、本当に良かったなって思うの。だって、今年は桜が咲くのこんなに楽しみなんだもん」
 香代子はうつむいて、恥ずかしそうに、嬉しそうに、いつみの心臓を突き刺した。
「…………!!」
(いけないっ、まともに入ってしまった……っ!)
 目まいすら覚えて、慌てて香代子を視界から外した。突き刺された心臓がどきどきと苦しそうにうめく。
 なんでこの人はこういうことを平気で言えるんだろう。信じられない。狙ってやってるのなら、とんでもない人だ。将来は女優でも目指した方がいいかもしれないっ。
 それくらい、ひどかった。なんてかわいいんだろう。この子と出逢えたことを、いったい誰に感謝すればいいんだろう。
 いつみは天の神様にでも祈ろうと天を仰いだ。でも、なにか違うような気がして考えを改め、香代子の向こう、街路に見える桜の樹を正面に据えた。そっと目を閉じて、桜の樹と、風の神に。
「桜の神様、風の神様、私を香代ちゃんと引きあわせてくれて、どうもありがとう。むにゃむにゃ」
 自分の名前にふと顔を上げた香代子が、なにやらぶつぶつと言い始めたいつみをのぞきこむ。眉根を寄せて必死に祈りを捧げる姿をまじまじと眺めて、くすっと笑みをこぼす。
 この人って、考えてることがそのまま口に出てくるから面白い。絵に描いたような「嘘のつけない人」よね。
――えいっ」
 ちょっと浮かんだいたずら心からか、香代子の小さな声が、いつみの祈りを邪魔するように遮った。

    †

 二人の遠く正面で、「彼」が、ちょうど地平線に触れた。大きな躯体を横たえるように、街の彼方へ沈みかけていた。対として、その反対側で夜の女王が、丸く清らかに輝きを帯び始めていた。
 幾億年も前から欠かさずくり返されてきた儀式が、今宵も執り行われようとしていた。

 いつみがはじかれるように立ち上がって、両腕を地平線になぞらえながら、どこまでもいっぱいに広げる。大きく息を吸いこんだ胸の中で、くすんでいたものが磨かれるように洗われるのを感じる。
 そして、ひとつの実感を嬉しそうに確かめた。
 ――うん! 私は、ここにいる――
 自分はここにいる。自分は生きている。だから、どこへでも行くことができる。今は小さな雛でも、大きくなれば空を翔ぶことだってできる。
 実感が確信へとつながる。自由の謳歌が果てしなく続く。心の内にふくれあがったものが、際限なく大きくなっていく。

(それはなに?)
〈希望!〉

 自分が生きているから、自分はここにいて、自分で歩ける!
 そう、どこへだって――
 振り返ったいつみは手を差しのべた。
 それは、選択だった。
 香代子を誘っていた。
 一緒に行きたかった。
 一緒に来てほしかった。

(どこへ?)

 愛する親友へ向けられた細い眼差しは、どこか小悪魔の印象を呈していた。しかしその表情は、香代子には読み取ることができなかった。愛する親友の姿が夕陽で逆に写され、まるで影が闇への誘いをかけてきているように見えた。
 差しのべられた手を取ってしまったら、闇に引きずりこまれてしまうかもしれない。もう二度と抜け出すことはできなくなるかもしれない。どこか、戻ることはできない場所へ連れていかれるかもしれない。
 そんな不安におそわれた。
 自分は今、選択を迫られている。
 なぜか、そう思った。
 だから一瞬だけ、躊躇した。
 一瞬、だけ。
 誘いに応える手は少しためらいがちだったが、そこにあるはずの瞳を見つめ返す眼差しは、決心――いや、覚悟さえ宿していた。
(たとえどこへだって、いつみちゃんとなら――
 不安は、恐怖の前に、どこまでも無力だった。
 いつみのいない世界。
 それがなによりも怖かった。
 一時の気の迷いなのかもしれない、若さゆえの迸りなのかもしれない、現実を見据えていないだけのかもしれない、たとえそうだとしたって、無限に分かれていく道を、皆、選んで生きているのだ。
 進むべき道は、選ばなければならないのだ。

(だれが?)
〈私が!〉

 自分は生きているのだから、自分の進むべき道は、自分で選ぶ!

(どこへ?)
《二人一緒なら、どこへでも!》

 いつみは誘いに応えてきた手を掴むと、いきなり力まかせに引き寄せる。
「うりゃっ!」
「きゃっ!?」
 立ちかけていた香代子は思惑通り簡単に体勢を崩して、余った勢いをいつみに預けてきた。自分よりひとまわり小さい香代子は思いのほか軽くて、もう少しで泥遊びをしなければならなかった。

 強く、いとおしむように強く、胸の中に香代子を抱きしめて、
 強く、せつなくなるほど強く、腕の中に抱きしめられながら、
 あるだけの想いをこめて、髪の感触のやわらかさを頬に受けていた。
 息苦しさを感じながらも、頬の感触へ身体を預けるままにしていた。

 たまたま通りがかった買い物帰りの主婦と仕事帰りの会社員は、その光景をちらりと横目に見たが、どちらも取り立てて気にはとめなかった。仲の良い友達がじゃれついている程度にも思わなかった。二人の間にある絆が友情よりも深いものであることなど、考えもしていなかった。ただただ、己の家路を急ぐのみであった。
 二人はいつまでもこのままでいたいと願っていた。誰かに見られることなど気にもとめていなかった。自分達の行く先になにがあるかなど、考えもしていなかった。ただただ、今この時を大事にしたいと思うのみであった。

 ――どれくらいそのままでいただろう。香代子が顔を上げ、いつみの視線を求めた時、時間は長い長い束縛を解かれた。それでも二人は至近で一直線に見つめあい、再び時の流れを縛ろうとする。
 かあっ。
 その時、番いの大樹にとまって様子を見ていたからすが、呆れた声を上げて宙を舞った。羽音は二人を我に返らせ、大樹が「彼」ではなく「彼女」に照らされつつあることを知らされた。
 夕焼けの匂いはだいぶ薄らいでいる。
「あっやばっ!」
 ようやく時間を把握したいつみが叫ぶ。
「ごめん香代ちゃん、今日お兄ちゃんと約束してたの忘れてた!」
 ベンチに置いてあった鞄を取り、相当慌てた様子で香代子の分も手渡す。早くしなければ兄のバイトが終わってしまい、給料日にかこつけてなにか買ってもらおうという目論みが水の泡になる。幸い今なら間に合う。急がなければならない。
「香代ちゃんも一緒に行こうよ」
 いつみは香代子の手を取って誘ったが、「ううん、わたしももう帰らなくちゃ。ごめんね」と返された。やや気乗りしない様子もうかがえた。
「ありゃ。それは残念」
 もう一度、香代子をぎゅっと抱きしめる。先と違い、自分の背にも手がまわる。
「ごめんね」
 香代子はくり返し、いつみは「ううん、いいよ」と答えながら名残惜しそうに離れた。
「それじゃまた明日、学校でね」
 いつみはにこっと笑って駆け出す。公園の出口で振り返り、建物の陰に隠れる寸前、もう一度振り返った。大きく手を振って、愛する友へしばしの別れを告げていた。香代子は小さく手を振って、愛する友に応えた。

 しばらくののち、あたりは一面に暗くなり、月明かりと街頭のわずかなともしびだけが公園の姿を浮かべていた。雄々しく見えた番いの大樹が不気味に葉を鳴らす。風に揺られたブランコが寂しそうに泣く。
 その片隅のベンチに、香代子がいた。身じろぎもせず、ただずっとうつむいていた。時々聞きとれない声でなにかをくり返し、スカートを握る手に力をこめていた。スカートにはいくつもの斑紋がいくつもいくつも描かれ、それでも重ねて雫は落ちていた。

 遠い彼方から電車の警笛が聞こえる。
 遠い天空では夜の女王が燦然と輝く。
 細く涸れた音が公園に広がっていく。
 それでも番いの大樹は、ただ香代子の姿を見守っていた。


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